先回分類は難しい。が「適当」にやると書いたが、単純に「雑感」と「ラストパス」に書くことをどう分類するかだけのことであり、そんなに難しいことではないのかもしれない。会社時代の組織の事やファリングの事に比べたら楽なものだ。ただそんなたった二つの分類も、完璧にしようとして考えすぎるとおかしくなる。
そんな小さなバカげた悩みも、実をいうと二人の素晴らしい「先輩」の、最近発表された著書でスッキリしたのである。それが阿刀田高氏と筒井康隆氏。どちらも91歳である。二人の著書は「90歳、男のひとり暮らし」(阿刀田高)、と「九十歳のあとさき」(筒井康隆)。
阿刀田高は好きな作家で、著書も優に30冊以上は読んでいるかな。文章が上手く、話しも飽きさせない。あと「〇〇を知っていますか」というシリーズがあり、それこそ旧約聖書、新約聖書、源氏物語やコーラン等があるのだが、その知識たるや凄い。その凄いことを分かりやすい言葉で書いてある。筒井康隆も好きな作家で、パニック小説を主に結構実験的な小説を書いている。個人的には「日本以外全部沈没」という「日本沈没」のパロディの短編好きだ。
話を戻して、最近読んだ両者の著作は、いわゆるエッセイだが、年齢的なこともあり、現実問題としてひしひしと感じるものがある。全てが「あるある」か、それを想像できることばかりで、私もある程度の年代になったなと実感する。ただその表現方法が両者は対照的である。阿刀田高の方は、最近の出来事を項目別に分類して、客観的な考察を施している。それぞれが含蓄がありとても考えさせられる。それに対して筒井康隆の方は、生活をそのまま書いている。言い方は悪いが何も考えず事実を「書き散らしている(笑)」と言っても良い。酷い扱いを受けた相手に対しても実名公表をいとわない。もう怖い物はないのかな。ある意味その自然体は気持ちの良いほどである。
そしてちょうど「先輩達」のこの表現方法は、私のブログの分類にピッタリではないか。すなわち、筒井康隆→雑感。阿刀田高→ラストパス。うん、この方式で行こう! とてもスッキリした(笑)
この両者の著作は、人間の最終期における現実、老いの現実を書いたものだったが、最近高橋源一郎の「ぼくたちはどう老いるか」を読んだ。彼はどちらかというと、私と同世代と言っても良い。老いの話の過程で、「もうろく」から認知症に踏み込んで、「死」とは、「生きる」とはを精神的な面を前面に出して語っている。
鶴見俊輔の「もうろく帖」、吉本隆明の長女で漫画家のハルノ宵子の「隆明だもの」、有吉佐和子の「恍惚の人」、私小説家の耕治人の「天井から降る悲しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」の著作を例にして、そして知り合いだった谷川俊太郎、実弟のトシちゃんの死を通して、人間の死とそれが必然ゆえの生き方を書いている。特に「隆明だもの」では、老いの、通常ネガティブに感じる行動を、その人の尊厳を守る理論的にも優れた解釈をしていて、とても感動した。
そしてびっくりしたのが、耕治人。実はこの本を読む2日ほど前に、テレビのアマゾンプライムで、「そうかもしれない」という映画を観たのだ。もちろん中身も知らずに。何か映画はないかなといろいろ探していて、三代目桂春団治が出ている映画があったのでそれを選んだ。
三代目春団治は私の好きな落語家で、私が小学生の時から知っている。当時、テレビで角座中継をそろばん塾に行く前に見ていたぁ。そんな中で、どちらかと言うと漫才の方が好きだったが、落語家の中では春団治が一番カッコ良かった。特に「まくら」が終わって羽織を脱ぐ所作。両肩スッといっぺんに脱ぐんだよね。右·左と、もそもそ脱がない。今でも寄席で落語を観る時、羽織の脱ぎ方に目が行く。そのことが頭に会って、社会人になってから、スーツを脱ぐ時にきれいに見えるよう、両肩いっぺんに脱ぐ練習を結構した(笑)。
その映画は春団治と雪村いずみが老夫婦で、春団治が作家役で、妻の雪村いずみが認知症になっている。食事風景や、下の世話、妻の徘徊、火にまつわる事故など、かなり突っ込んだストーリーだったが、観た時はわからなかったが、高橋源一郎の本を読んで、なるほど私小説だったんだと納得した。そのうち春団治がガンに罹る。余命いくばくもないガン患者と認知症の老夫婦。そのうち認知が進み、タイトル通り、また著書の前作のタイトル通り、雪村いずみが春団治に対して、「どんなご縁で」とか「そうかもしれない」とかの言葉を発し、糟糠の妻が全く自分に対する記憶をなくしたことを悟る。
私小説は一応フィクション無しで事実を書き連ねる。高橋源一郎の本でわかったが、作家の耕治人はそれを貫いた。がそんな本は売れ行きが悪く、若い頃は奥さんが生活を支えていたという。その前提での老々介護。認知になった妻を夫は一人で必死で支える。面倒を見る。そして私小説を書き続ける。その私小説が映画の元となっている。
高橋源一郎の本では重要な事実がわかる。私小説なので、主人公の耕治人のことはその範囲内でわかるのであるが、実は小説を書き上げたその後である。耕は書き上げた後、ほどなく亡くなるのだが、その少し前、書き上げた原稿を闘病中の病院で編集者に渡す際、ベッドに正座して卒業証書授与のごとく、両手で原稿を持ち、頭を下げ、捧げるように渡したそうだ。これは偶然、その編集者が高橋源一郎の知り合いだったことによる情報である。最後は妻が認知症になり自分が忘れられた形になったが、それを受け止め、妻とのかけがえのない人生を卒業をして、死に向かったのであろう。無理なことであるが、映画のラストシーンはこれであって欲しかったな。
これからの人生、「老い」「病」「認知症」「死」と直面しなければならない。自分の心の中でどう折り合いをつけるか、大きな課題であり、「ラストパス」の根底に流れる主題でもある。

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