国宝を観た。

雑記

先日、映画「国宝」を観た。話題の映画で封切り時は満席だと聞いていた。基本的には人混みが嫌いで、映画館にしても食べ物屋にしても電車やバスにしても、適度に空いていないとストレスがかかるタイプだ。映画に関して言えば、いわゆる名画座というのが好きで、適度に空いていること。チケット購入のアナログ感。やっている映画の個性などがその理由かな。昔よく行っていたある映画館は、多い時で数名、半分近くが私一人、平均2·3人の信じられない観客数だった。ある人から聞いて、全く人のこない時もかなりあって、その時は30分だけ上映して閉めるそうな。まぁ結局その映画館は閉鎖になってしまったが。それは極端としても、ちょうど「国宝」も、ピークが過ぎ空いているだろうと推測して観に行ったのだが、良かった、思惑通り空いていた。20人ほどの入りか。観に行った映画館は、いわゆるシネコンでタイプ的にはあまり好きではなかったのだが、空いていれば問題はない。客層も若者が多い映画館なのだが、さすがに平日の午前中は私と同じ年配者の比率も多く、心地よく観ることが出来た。

話は、歌舞伎の名門役者に見いだされて、引き取られた主人公が女形として人間国宝になるまでの物語。多分高校生ぐらいの時か、引き取られたときそこには同じ歳の名門役者の息子がいた。ある時名門役者が怪我になり、その時の代役を息子ではなくその主人公を抜擢したことから、その後いろいろな物語を生んでいく。主人公の心の葛藤の中心をなすものは、「血」である。本人は役者としてトップになりたい。そのための努力も目いっぱいやっている。才能もあり、それでこそ代役に抜擢されたのであるが、一抹の不安というか肝心要の不安が歌舞伎名門の血を引いていないということ。逆に実際の歌舞伎界の人は、そんな時自分のその血を神様のように感じるのであろう。主人公は「血」のかわりに、悪魔と取引をして、全てを投げ打つかわりに役者のトップを得ようとする。結果的にはその「血」を乗り越えて、強い意志そして不断の稽古で見事に人間国宝を勝ち取る。

結局「血」とはお守りのようなものであり、それ自体に神的な力は無かったのだと思う。せいぜい信じることによって不安を解消することぐらいか。 「血」は例えば「伝統」という言葉に変えるとすると、それは環境だと思う。歌舞伎でいえば幼いころからの稽古や、周りの人達の所作を経験すること。これが大きいのではないか。才能の面では確かにDNA的にはあり得ることだが、その才能すらもこういった環境に適合出来るという種類で、声、体力、知力、表現力等、外の人にもっとすごい才能があるかもしれない。そしてその外の人の才能がその環境にあれば花開くであろう。

歌舞伎に限らず伝統芸と称されるものは、演劇や落語などもそうであろう。そして政治家、スポーツ選手、一部の企業家等々。子供のころの環境が濃密なのは歌舞伎であろうが、政治家やスポーツ選手、同族の会社等、その濃密度が薄れるにつれて、そういったいわゆる「世襲」も薄れているのではと思う。すなわち繰り返すが「血」とはある種恵まれた環境ということで、才能には関係ないのではという結論である。

高校野球に代表される学生スポーツで名門と称される学校があったが、最近はそういうものが少なくなったと思う。その大きな理由がネット社会による情報の流通である。野球にしてもバスケットポールにしてもサッカーにしても、昔はある一部の学校が圧倒的に強かった。当然先輩から後輩へと「血」が繋がっているわけではなく、これはコーチを中心とした代々受け継がれる練習法のたまものであった。無論そういった学校に才能のあるものが集まるという側面もあるが、だいたいがこういった練習法で鍛えらて一流になっていく。ただスポーツ工学の普及や練習法、それこそ一流プレイヤーのプレイぶりを簡単に情報として入手できるようになった。その結果、各学校の実力の平準化が起きている。演劇や落語も次第にそのような傾向になっていると思う。そして一番極みの歌舞伎界もそうなっていくであろう。

政治家と同族会社はあえて外しておいた。スポーツや芸能は真の実力社会である。「血」を環境と置き換え、実力を得るにはそれが大事だということが言いたいのだが、ただ政治家と同族会社は実力とは違うところで成り立っている。本来なら実力で成り立って欲しいし、それであったら良い世の中になると思うが、現実はそうではない。ただ単なる血のつながりだけで、それが歌舞伎のように、芸術性のある価値、唯一無二の価値を生み出しているわけではない。

「血」という問題は別の面でいろいろ考えさせられる。後世に自分の「血」を残すとはどういうことなのか。いずれまとめて書きたいと思っている。

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