献杯

雑記

7月からの新生活。やりたいことがいっぱいあった。単身赴任中ではマイカーをほとんど使っておらず、8年前に買って走行距離がわずか14,000キロ程度。時間が出来るからドライブで近場の名所を回りたいと思っていた。平日なら空いているしね。少し足を延ばして、関東地区の温泉宿を2泊ぐらいしてゆっくりするのもありだと思っていた。近所の蕎麦屋、居酒屋、バーなどを探索するのも楽しみだったし、東京に出て寄席や映画もありだなと思っていた。そして基本的な生活の柱に、このブログを一日おきぐらい、出来れば毎日でもしようと思っていた。

しかし、いきなりの頸椎の損傷(今でも痛みがしっかり残っている)。そして異常な暑さが、これら思い描いていた新生活の障害となっている。女房の体調の悪化も気掛かりだ。そして、4日前、母が亡くなった。

かなり危ないと言われて半月ほど。何回も新幹線を使って病院に通ったが、幸いにも最期を看取ることが出来た。そのあと葬儀の手配·打ち合わせ、お寺の手配、母が認知症で後見を立てていたのだがその弁護士への連絡、入院する前にいた施設への連絡等、全て一人でやらざるを得ず、とても疲れた。通夜·告別式を終え今ホッとしたところではある。ただこれからもいろいろな手続きが必要で、それらに時間と神経を割かれる。

私は父、母、姉、弟との五人家族だった。最初に姉が若くしてガンで亡くなり、続いて父、弟と逝き、最後残ったのが私と母だったが、かなり前から認知症で当初は自分の若いころの記憶はあったものの、どんどん記憶が無くなり、3·4年前からは完全認知であった。ただ身体はしっかりしていた。ところがこの6月ぐらいから急激に悪くなり、施設と病院の行ったり来たりだったがどんどん衰え、話をすることは全く出来なくなっていた。

母とはいろいろあった。母にとって私は自慢の息子であったようだ。溺愛されていたと言ってもよい。ただ世間にもよくある話だが、結婚してから徐々にその関係はおかしくなった。いわゆる嫁姑問題。私は最終的には嫁の方についた。客観的にどちらが悪いかをみれば8対2ぐらいで母が悪かった。ただ年下から合わせるようにと女房には言っていた。しかしそのうち母は自分を正当化するために嘘をつくようになった。始末が悪いのは、その嘘をずーっと言い続けていると、本人の頭の中でそれが事実のように変換されるのだ。一応事実とは違うということをこちらが言っても聞く耳を持たない。父も巻き込み、いろいろ酷いことを延々と言われ続けた。ある段階で私は母を母として認めないことにした。心の中で縁を切った。

母の面倒を見ていた弟が三年前に逝き、否応なく私が面倒を見ることになった。といっても進んだ認知症で施設に入っていたので、それほど負担はかからなかった。認知症とはある意味ありがたいもので、気分的に私が子供の頃の良い関係に戻ったような気がした。母も私が何者かという認識がないものの、昔の関係が良かった当時の表情や話し方であった。そんなことで、亡くなる間際にも、母の耳元で、「母さん、いろいろ酷いことされたけど許すよ。産んでくれて、育ててくれてありがとう。」と言うことが出来た。その時全く無表情だった母が目を見張らいた。

ということで、「老体」にはハードな日が続き、思い描いていた新生活が出来ない。ただゆっくりやろうと思う。母が亡くなった日、暑い中を手続き等で動いていた時、一時間ほど時間が空いた。そんな時、涼しいビルの中、占い師がいたのでみてもらった。通常は占いなんて信じてないし、みてもらうこともほとんど無かったが(これで2回目か)、心身ともに弱っていたのかな。タロット占いだったが、不思議に自分のことをよく理解されている感じがした。その時「今は慌てないでじっくりいった方が良いですよ。いまから三か月後に大きな運が来ます。その時行動を起こしましょう。」と言われた。7月に入って、自分は変わらなくてはいけないという強い強迫観念があったのかもしれない。そんな中頸椎を痛めたり母の容態が悪くなったりで、焦りがあったのも事実だ。もうゆっくり進もうという考えに至ったが、今回の占いはその考えを後押ししてくれた。

今日も無理しないでおこう。

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